第004章:青年個人による橋渡しの重要性

  2022年12月8日、中国は「ゼロコロナ」政策を解除した。 世界の政治・経済において重要な国の一つとして、中国は遂に日常を取り戻した。 中国が日常に戻るということ、それは、世界が3年間のコロナ禍の終息を宣言したことと等しい。皆、世界が2019年以前のように戻ることを願っている。それは、まるではるか遠くに行ってしまった、人々が恋焦がれる輝かしい時代だったかのようだ。 一方で、コロナ禍という災難以前の歳月を振り返ると、この災難の記憶は苦痛を伴うからだろうか、わたしたちはみな、歴史を美化しやすい。 コロナが訪れる2019年末までの世界は、果たして本当に素晴らしい未来行きの列車の中だったのだろうか?

  2018年7月、トランプ政権は中国に対して貿易戦争を始めた。 太平洋両岸の関係は世界の政治経済秩序を揺さぶっている。 グローバルサプライチェーンシステムは大規模に調整された。アジア太平洋地域の国は陣営の選択に直面し、 戦火は依然として中東とアフリカで燃えている。 難民の流入とヨーロッパの持続不可能な高い水準の福祉政策により、ヨーロッパ全体が人種問題と不景気の暗い雲に覆われ深みに嵌りつつある。 中国も高齢化社会に入り、人口ボーナスはなくなっている。 中国の政権3期目や台湾問題も常に世界の注目を集めている。 2019年の記憶を思い起こせば、グローバル化が反グローバル化に移行し始め、経済危機が近づき、民族主義とポピュリズムが徐々に世界を覆っていた。 2019年。それは、良い時代に向かうというよりは、良い時代の終わりのようだった。

  そんな世界の中で、突然の新型コロナウイルスのパンデミックが全てを変えた。 騒々しい世界が静まり、FRBは前例のない量的緩和で世界経済の渇きをいやした。 企業は次々と在宅勤務政策を打ち出している。 航空会社の巨額の赤字と人員削減は、世界各地の対面での交流が困難になり、オンラインコミュニケーションが主流になったことを意味している。 疫病への恐怖が、人々のエネルギーを支配した。

  2020年から2022年までの3年間、私は最初の2年間日本で働いて勉強し、最後の1年間は中国杭州に帰り、ベンチャー企業の起業に加わった。 このコロナという特別な経験が世界に突きつけたのは、共通の災難に共に立ち向かう連帯ではなく、世界のますます深刻な分断だと感じた。 特に東アジア地域の若者世代の間には、越えがたい混とんとした溝が築かれている。 その影響は今でも正確には計り知れない。今、世界が再び開放され、公式の言葉の外で、民間外交、特に青年世代の相互コミュニケーションのきずなは特に重要で、意義深い。

  2020年のある夏の夜、私は京都出張から松山に帰ってきた。雨が降っていた。 私は、空港からタクシーで帰宅することにした。 荷物をトランクに運び、車に座って出発する。 場所などの情報を簡単にやり取りした後、運転手は私が中国人だと気づいた。運転手の話の調子や、態度が急に悪くなった。 不安を感じながら目的地に着いて降りた後、運転手は急速に車を走らせ、車内で発散するように「中国ウィルス、クソやろ」と叫んだ。 この2年間、このような個人的な経験は少ない。だが、インターネットを通じて、世界各地で同じようなことが起きていることを知ることができる。 海外に住む中国人にとって、このような経験は共有されたグループでの経験であり、集合的な記憶となっているのだ。

  2021年9月、日本を離れ杭州に戻る前に,合気道の「国際有段者証」を授与された。 2年間のコロナ禍の間、多くの公共活動を中止せざるを得なかったが、私と数人の友人は週3~4回合気道の練習を続けている。 夜9時の練習が終わると、私たちは道館でそのまま他愛のない話をする。 週末になると、居酒屋で会食したり、どこか出かけたりすることもある。 話題は正規ルートのニュースからささいな情報まで多岐にわたる。新型コロナウイルスについて、ウイルスの命名、起源、伝播方式など、真面目に話すこともあるし、冗談にすることもある。 新型コロナウイルス以外では、結婚、慣習、学業、市政などの生活の細かい話をしたりする。 そういう時間を共有し、互いに迷いや意見の衝突に直面しながら、私たちは互いについて理解を深めていった。お互いが誠実に対話をすることで、私たちそれぞれの感情はより純粋になる。 2年間、このように密接に私たちはかかわりあってきたが、互いに配慮し合い、コロナ予防が適切だったからか、新型コロナに感染することはなかった。 松山を離れる際に私が最も名残惜しいと思ったのが、この時の友人たちだ。

  2022年、私は中国に帰国した。 8年ぶりに杭州に再定住となった。杭州で、多くの学生と触れあう機会があった。 2019年前後に入学した大学生たちは、基本的に家とオンラインの往復で大学生活を終えた。 在学中も、規制で学外の世界との実際的な交流をすることができず、国際交流の機会はほぼゼロだった。 中国の学生にとって、大学入学前は、ほぼすべてのエネルギーが大学入試の準備に注がれる。 社会に出て仕事を始めると、厳しいストレスで多くの人が生活以外のことを気にする暇がなくなる。だから、 大学生活は現実から少し離れ、独立的な自主精神を育み、世界を体験し、経験する重要な時間である。コロナと政治環境の影響で、学生たちは、このような多様な体験をする機会を失った。そんな学生たちが見せた保守意識と人生選択の統一性に、私と友人は戸惑いを覚えている。 このような世代の保守的統一は、中国だけではなく、他の国、特に東アジアの国でも明らかにみられる傾向だ。 それは将来、異なる文化共同体の間で対話と相互理解を実現したいとなった時乗り越えにくい壁を築くだろう。 近年の「日中共同世論調査」によると、日中相互のイメージは大幅に悪化している。 年齢層を大学生に制限すると、この傾向はさらに悪化する可能性がある。これは私たちの学生時代、中日青年の間の積極的な相互理解の熱意とは正反対の方向だ

  現実政治の実践過程において、国際関係を見直す際には、私情を除いて、国益に基づいて考慮する必要がある。 2019年に出版された新書「日中関係史 1500年の交流から読むアジアの未来」の前書きではこう記載されている。

中国はいつも日本を非難しています。「すみません」は少なすぎて、誠実ではありません。一方、 日本は、改革開放以来、中国は日本から多くの経済援助を受けて、その後の経済奇跡があったと考えていますが、感謝の気持ちを十分に表したことがなく、「ありがとう」と言うことをしない。

—— 「日中関係史 1500年の交流から読むアジアの未来」

  ここでの「謝罪」と「感謝」はすべて国家レベルの交流である。現在の現実政治の苦境は、短期的に国家レベルから矛盾を解決する道を見つけることができず、忍耐力に頼って、適切なタイミングと後継指導者の知恵を待つしかない。しかし、個人のレベルでは、良識を忘れていない日本の退役軍人が当時の殺戮行為へ反省をすることができ、また、80年代の日本が提供した技術支援と経済援助によって運命が変わったことを感謝している中国の労働者の話も聞くことができる。 これらの個人のミクロな繋がりの存在は、現実政治の苦境から抜け出すための、緩和の空間を提供している。

  私は一人の普通の人間として、雨が降る松山のタクシーの中で、突然人の敵意に直面した時の恐怖と不安を覚えている。それは私のその後の生活に糸のように入り込み、一人で出かけるたびに心にもつ警戒心をぬぐうことができない。同時に、同じ小さな町で、合気道で縁を結んだ友達を覚えている。 現実政治がもたらす影響と挑戦に直面していても、私たちには、現実の政治より大切にすべきものがある。最近、館長のアルツハイマーの病状が悪化したため、館長の家族は彼を老人ホームに送った後、合気道館を閉鎖して売却する予定と聞いた。 友人たちは散り散りだが、みんな力を合わせて非営利型一般人社団法人の設立をはかり、道館を買い取って経営を続ける予定のようだ

  第二次世界大戦が終わった後、イギリスの歴史家トインビーは息子をドイツに遊歴させた。 彼は何をドイツで見たのか。メディアで見られた邪悪なナチへの批判はあるが、その土地にも、同様に千万人の多彩な一人一人の生命が、善に向かっているということだ。 iEAの友人たちと共同でこのようなプロジェクトを運営するのは、異なる価値観の青年間の相互理解を推進することである。 自由な個人の姿で、若い世代の心の扉を開け、時におだやかに、時にはっきりと自分を表現し、自分とは違う他を受け入れよう。 文化の多様性は、紛争の原因や言い訳を助長するものではない。文化の多様性は、多彩な個人の生命体験を構築する基盤であるべきである。 結局のところ、それぞれの成長過程で染まった文化を脱ぎ去れば、私たちは皆自然の前では裸の「人間」であり、違いはない。

  今、現実政治がますます多くの交流の扉を閉めている。私たちそれぞれの交流の心の扉は、もっと守る価値があるものだ。ますます不確実な世界に直面した今、私たちはみな、大きな勇気を示す必要があるのだ。

高 天齐 / Tianqi Gao