第003章:国交正常化50周年への違和感と期待
2022年9月25日、慶應義塾大学にて日中国交正常化50周年を記念したイベント、「日中関係100年ー1972から2072へ『架け橋』のバトンパス」が日中学生会議主催のもと開催された。筆者も一登壇者として、この会に参加させていただいたが、その中で特に印象的だったのが主催者側で、今回のイベントの主な担当者である勝隆一さんが語った、これからの日中青年交流についてだった。
「僕たちの活動の目的は、日本と中国の関係を良くしていくこと、それは言い換えれば『日中友好』で、友好を打ち出していこうということだったのです。実際に今年の初めにそれをやりましたが、するとどうか、なかなかこれがうけないのです。非常にコアな層には熱く共感してもらえるが、日中関係を改善していこうという輪が広がらなかった。『友好』のために『友好』と言いすぎないほうがいいのではないかと感じました。そして(日中国交正常化50周年などといった)『アニバーサリー』で終わらせないことが交流においては大事だと考えます」。
—— 勝隆一さん
当時、同じ壇上で勝さんの話を聞いた私は、彼の素晴らしい指摘に敬服し、頷くばかりだった。
国交正常化50周年に際して生じた「違和感」
私は学生の頃から日中交流に携わり、大学時代には所属していた中国の大学の日本人会で日本の文化発信や、OVALという日中韓の学生が主催するビジネスコンテストの組織委員会で、大会の企画と運営に携わった。大学院でも、仲間たちと一緒に、日本の高校生向けの北京サマープログラムを企画・運営し、今や世界最大のユニコーンとなったバイトダンス本社や、大学の研究室への訪問、現地学生との交流会なども実施した。
社会人になってからも、何かと日中交流に関わってきた。残念ながら新型コロナウィルスによって、オフラインの訪問が中断し、余儀なくオンライン交流が続いているが、今年に入りオフラインの会合も日本を中心に増えつつある。特に今年は日中国交正常化50周年の節目の年。厳しい国際情勢の中でも、各地で記念事業が開催され、東京でも50周年記念慶典が日中共同声明の調印された日である9月29日に開催された。
私も幸いなことに、前述の日中学生会議が主催する記念イベントのほか、いくつかのイベントに出席させていただいた。中には、日中学生会議のように学生さんが主体として運営するイベントや、企業、大学などが企画・実施したイベントもあった。もちろん、イベントの趣旨も様々で、今後の未来について考える会もあれば、これまでの50年の軌跡を振り返るような会もあった。しかし、これらのイベントに参加する中で、自分の中にどうしても拭えない違和感が生じた。それが「正常化」という言葉の永続性と、日中に関わる世代の「断層」だった。
「正常化」という言葉の永続性と世代の「断層」
1972年9月25日、田中角栄総理大臣と大平正芳外務大臣は中国の北京を訪問し、首脳会談を経て、9月29日に周恩来国務院総理、姫鵬飛外交部長と共に日中共同声明を調印。日本と中国における国交正常化が成就した。それからの50年、日中関係は大きな変化を遂げた。経済面で、中国は日本を超えて米国に次ぐ第二の経済大国となり、日本にとっても最大の貿易相手国となったが、度重なる政治問題によって、両国の溝は深まり、政冷経熱(政治的には冷却しているが、経済的には加熱している)の時代が続いた。
コロナ前の2018年には安倍元総理が訪中し、日中平和友好条約締結40周年のレセプションや、日中首脳会談に臨み、日中関係の改善の兆しが見えた。安倍元総理の訪中に伴い、天安門広場には日本と中国の国旗が掲げられ、当時北京に住んでいた筆者も19年間の生活で、初めて見る光景に驚きと感動が隠せなかった。北京の象徴的な建築物の前に、日の丸と五星紅旗が空中を舞う姿を見て、両国の関係はやっと長く、暗いトンネルから抜け出し、新時代を迎えるのか、と筆者は深く噛み締めた。
ところが、2020年から新型コロナウィルスが全世界で猛威を振るい、友好ムードにあった日中関係もそれどころの事態ではなくなったようにみえた。それでも、日本HSK事務局が中国へ宛てた支援物資上に印刷されていた「山川異域、風月同天」(山川、域を異にすれども、風月、天を同じゅうす。風景や住む場所が異なっていても、同じ空のもと暮らしている。つまり、異なる場所にいても、心をお互いに通じ合っているという意味が込められている)という漢詩は、多くの中国人の心を突き動かし、コロナの収束と最も近い隣人を訪問することを心待ちにしていたと思う。2年半、各国の国境は閉ざされ、人的往来も叶わず、国家間の距離も遠ざかるばかりだった。
そんな中で迎えた日中国交正常化50周年は、祝賀ムードが低調した。もちろん、日本と中国のはざまで活躍する人たちにとって、節目の年であり、様々な記念イベントも開催されたが、例年と比較しても祝賀機運は乏しかった。そしてこれらの記念事業でさらに露見されたのが筆者の抱いた違和感でもある「正常化」という言葉の永続性と世代の「断層」問題であった。
「正常化」という言葉は、日中国交正常化の際に、これまで不正常な状態を、正常な状態に戻そうという取り組みだという認識。その言葉の永続性は、つまり、50年前の1972年に実現した日中国交正常化という瞬間がそのまま50年後の現代社会にも継続されていることを意味する。正常化以前は、日中共同声明に記されている通り「不正常な状態」ではあったが、1972年の国交正常化を機にすでに不正常な状態は解消されていた。それから50年という時がすぎ、両国は偉大な先人たちの弛まぬ努力によって安定的な日中関係を構築してきたが、2022年という節目の年を迎えてなお、「正常化」という言葉からの脱却が実現していないように思える。
そして「正常化」という言葉の永続性に繋がるもう一つの問題が日中関係に携わる世代の「断層」だ。1972年以降、日本と中国の国交正常化に尽力してきた人たちはとうの昔に第一線から退いている。これからの日中新時代を担うべき世代は、私たちや、次の世代となるはずだが、残念ながらその断層が続いている。「この生あるは」の著者でもある中島幼八さんは、残留孤児として中国で生活した日々と、中国で自分を育ててくれた養父母に対する感謝を著書に記した。そしてその著書の中に、日本と中国、両国のことを「日本は祖国、中国は故郷」と例えた。当時、国交正常化を迎えて日本に帰国した残留孤児の方々は、心の底から日本と中国の友好関係を願い、日中関係の構築に身を捧げた。しかし、あれから50年の時が経ち、両国の経済活動が活発化するものの、民間交流は少ないまま。加えてコロナによってオフライン交流は断絶し、すでに3年近い月日が経っている。
中国側との実務交渉を任され、国交正常化の立役者でもある大平正芳先生も、(日中国交正常化は)実際には民間の人たちの努力が大きいと評価していた。ところが、前述の通り、コロナ禍でオフライン交流をおろか、オンライン交流の開催もままならない中で、民間交流の力が弱まり、世代のバトンパスが進まないまま、2022年の50周年記念を迎えた。
しかし、幸いなことに次の世代には思いが強く、このバトンパスを次の50年に繋ごうとしている仲間たちがたくさんいることを記念事業の中で認識した。冒頭で話した勝さん始め、日中学生会議の皆さんはまさに友好という言葉だけでは終わらない、次の世代の民間交流を継続させようと尽力している。そして、普段の生活ではあまり認識しないものの、日本の社会に貢献しているたくさんの人々もまた中国にルーツを持つ華人の方だと認識できた。任重くして道遠し、だが彼らのような存在が日本と中国、この近くて遠い国の関係性を少しずつ近づけていることであろう。
そんな中で、筆者も日本で活躍する有志たちと共に、日本初となる華人のスタートアップ・イノベーションカンファレンスを12月に立ち上げた。わずか1ヶ月半という準備期間で開催したカンファレンスだったが、今後の日本社会における華人の共創について話し合い、無限の可能性を感じさせる会となった。
私たちにできることも、そんなバトンパスを繋ぎ、次世代にも続く日中関係の構築ではないだろうか。そして、次の50年は、過去の安定化の50年ではなく、共創の50年、さらには自分たちで定義する50年が必要になってくると思う。そんな未来の日中関係に期待を寄せて。
夏目 英男 / Hideo Natsume