第001章:近くて、遠い

「近くて、遠い」といわない社会をつくる

訪問者もまばらな、中国・南京市内のある記念館。

日本から事前予約をし、入り口ではパスポートを提示して入館したのは、利済巷慰安所旧址陳列館。

静寂に包まれた慰安婦についてのその記念館を、2019年の5月歩いていた私はふと、視線を感じた気がし、何気なく頭上を見上げた。 そして、ある悲しそうな写真の女性と、目が合った。

白黒の写真の中から悲しげに私を見下ろしていたのは、張先兔(Zhang Xiantu)さん。 2015年に私が実際にお会いした中国人元慰安婦の女性であり、日本政府を裁判で訴えた16名の中国人慰安婦で存命していた、最後の一人だ。

私はその瞬間、強烈に、人が歴史になるということを実感した。 儚さと、自分自身へのふがいなさ、そして日中双方の漠然とした社会に対して感じた憤り。

私は、東アジアを愛する一人の人間として、精いっぱいやってきただろうか?

2019年の5月のあの出来事は、今も私の胸に、強烈な痛みとして残っている。

私が自分の言葉を在りのままに綴ろうと思った理由は、東アジアの次世代が、「(地理的に)近くて、(心理的に)遠い」と言わない社会を作りたい、そのたった1つだ。 その言葉自体を知らない世代が大多数の社会を、私は創る。

だから私は今、あなたに問いかけたい。 なぜ、戦後77年以上もたった今でも、東アジアの三ヵ国の国民感情は、悪いのだろうか。

今、三ヵ国の中で起こっている事

グローバル化の時代、ひとくくりに私達は皆同じだとも言えないまでも、東アジア地域の三ヵ国に暮らす多くの私達は、外見から文化、様々な社会の類似性を共有している。互いのポップカルチャーに特に若い世代が熱量を持ち、日本社会で暮らす外国籍人口で2021年11月現在、上位3位を占めるのは中国、ベトナム、そして在日コリアンも含めた韓国や朝鮮のアイデンティを持つ人々だ。 中国では英語の次に日本語の学習が人気で、韓国においては日本がコロナ収束後に一番行きたい国に選ばれる等、良き隣人、仲間として暮らしていく事が当然であるような環境やデータがたくさん存在する。

それでも依然として、日本の内閣府が毎年行う世論調査では、互いの国の関係が両国やアジア及び太平洋地域にとって重要だと認識する傾向は半数を超えている一方で、対韓国・中国に対して半数以上の日本人が「親しみを感じない」と回答する傾向が長年続いている。

2020年は、64.5%の日本人が韓国に対して親しみを感じないと回答し、中国に対してはそれを上回る77.3%にも上った。そしてこれは、日本の国内で起こっていることだけではない。三国協力事務局が2018年に行った世論調査では、対日感情という観点でも、韓国・中国から単年ではありますが同様の傾向が見られている。 日韓関係が悪化した2019年以降、日中韓の首脳会談が2年間開催されていないこの現状を見ると、確かに、この世論は私達が直面している現状を如実に表している。三ヵ国の間には、領土問題、慰安婦問題、徴用工問題、政治家の一貫性を欠いた不用意な発言等、歴史や政治上の問題がごろごろと存在する。

歴史や政治の話は、したい人や、出来る人、若い学生がすればいい。 国家と人は別であり、いずれ時間が解決するから、わざわざ対立を持ち込む必要はない。そう多くの人が思うだろう。

私は、分断を更にあおりたいわけでも、ネガティブな傾向を強調したいわけでもない。

世論を表した、「親しみを感じない」という無機質な数字が突き付けてくるこの不穏な事実と、三ヵ国の街を歩いて目や耳に入ってくる互いの国や国民性への強烈な批判や嫌悪、一方的な差別、当たり前のように存在するマイクロアグレッション。

確かに存在するこれらを見ないふりをして、耳に心地よく共感と同意だけの関係性を築くことは、したくない、してはいけないと、思っている。 変わりゆく互いの国の発展度合いや世界情勢の中で、中国のGDPが日本を抜き、韓国のポップカルチャーがNetflixや音楽業界で中心として華々しく世界の真ん中を歩くように、三ヵ国のパワーバランスはこの先も変化し続けるだろう。その中で三ヵ国は、過去に捉われず、対等で付き合える良き隣人としてあってほしい。だからこそ、私はこの国民感情の傾向にしっかりと向き合い、日本社会や東アジア地域の中で率直な対話を促すことに、私の使命を感じている。

みんながみんな、私と同じ考えを今持たなくてもいい。 私より若い世代が、単純に文化や料理を愛で、歴史や政治、過去の出来事に今は無知であっても、いい。 けれど、私にとって大事なこの社会の作り方を、知ってほしい。

日本人としての私と、東アジアの友人達

私がここまで強い思いをもって活動する理由を、まずは綴りたい。 その1つ目が、東アジアとの出会い、2006年のアメリカでの経験だ。

私は人生の大半の時間を、日本の東京で過ごした。それでも、小学校6年生の頃から毎年夏には外国のサマースクールに送られ、高校時代には一年間現地の高校に渡米、それをきっかけに国際的な環境に魅力と自らの居場所を見出し、大学以降の教育は全て英語で、国籍や背景が常に異なる人々と受けた。大学院では北京に1年、ソウルに半年留学をし、キャリアは落ち着きがない数年が続いたものの、インドネシアでのプロジェクトや、国際シンポジウムの開催に携わり、現在の仕事でもメインの言語は英語を使用する。

こんな私を形作り、かつ東アジアとの出会いをもたらしてくれたのが、高校時代のアメリカ留学だった。

当時、「世界に声が届く作家になりたい」という夢を持っていた私は、自分自身で翻訳能力をつけるべく、アメリカのコネチカット州にある、小さいインターナショナルスクールに留学した。

そこで出会ったのは、韓国からきた、かけがえのない友人達。また、高校の近くにあった大学とも交流があり、そこで台湾や中国本土の学生とも、一緒にダンスチームを組み仲良くなった。

彼ら、彼女らと過ごす時間が、本当に楽しかった。

思春期ならではのいさかいも、激動の恋も、韓国人の友人の家で食べた料理も、共に机を並べて学んだ時間も。同じ地域から来た私達は、まるで磁石のように互いを見つけた。私の中には潜在的に、東アジアの人々と生きる、ということが、大切な価値観として根付いた。

この私の大切な価値観と世の中の空気が違うらしい、という事に憤りを感じ、具体的にアクションとして何ができるかを考え始めたのが、2つ目の経験、2010年、日本の湘南での出来事だ。

当時大学2年生だった私は、将来は国連で働きたいと思い、模擬国連というサークルに所属していた縁で、日本・中国・韓国の国連協会が主催する第一回日中韓ユース・フォーラムの日本代表団の団長に就任した。数日間、三ヵ国の学生が日本の湘南に集い、合宿形式でSDGsの前身であるMDGsについての討論や文化交流をし、そして最終日、団長だった私はスピーチをする機会に恵まれた。その際に中国団の団長が行ったスピーチが、私の人生の方向性を定める事となった。

「私達は、近くて、遠い。」

スピーチを行った彼には批判をしようとか、ネガティブなことを言ってやろうとか、そのような意図は全くなかった。彼はあくまで、現在の三ヵ国の関係をありのままに伝えただけだ。

それでも私は、悔しかった。

私にとっては、三ヵ国の友人たちはどこまでも近く、愛しく、幸せをもたらしてくれる存在だった。

私は歴史や政治について驚くほど当時無知で、三ヵ国の間に存在する亀裂を知り、どうしても、この言葉を聞かない社会が見たいと思った。

その後、私は大学・大学院生活をかけて、数えきれないほどの国際的な会合・フォーラムへの参加や企画に携わる事となる。2010年から毎年開催されたこの日中韓のユースフォーラムでは、2013年、札幌の会合の事務総長も担当し、成果文書を声明として国連や三国協力事務局に送る活動もした。世界の中で、東アジアはどのようにみられているのか。より多くの韓国や中国の人々と出会うために私は走り出した。

そしてとうとう、2015年6月。

私の背中を押し、人生の中で「近くて、遠い」社会をつくることを使命とした経験。それは、韓中双方の慰安婦の当事者の方とお会いしたこと、特に中国山西省においての出来事だ。

2013年、私は大学を卒業し、そのまま東京大学公共政策大学院CAMPUS Asiaの一期生として、大学院生活をスタートさせた。

1年を東京大学、半年をソウル国立大学、そして最後の1年を北京大学で過ごすこの大学院プログラムで、私は慰安婦問題に取り組んだ。理由は、単純にわからなかったから。なぜ、戦後多くの時間が流れた今でも、傷つき声をあげる女性たちに対して、それを否定する動きが自分の暮らす社会では存在するのか。そして戦争を知らない私はどうすればいいのか、その理由を知りたかった。

私はまず2013年の夏に、韓国国内ユネスコ委員会が主催した夏のユースフォーラム(International Youth Forum on Historical Reconciliation in East Asia)に参加し、そこで初めてナヌムの家を訪れた。ナヌムの家は、韓国の慰安婦当事者の方々が支援者の方のサポートで暮らす場所だが、一般にも開放されており資料館も併設されている、教育的な意義ももった場所。日本の学校からのメッセージなども展示された資料館を見学した後、世界中から集まった数十名の参加者と共に資料館の外に設けられた開けた場所で、1人の慰安婦当事者のお話を聞いた。

私はただ、その方のお話に耳を傾けていた。その場で同じ時間を共有し、彼女が生きた時代に、彼女の言葉にのって、一緒に思いをはせることが何より重要な気がしたからだ。 話の後、フォーラムの参加者が彼女に寄って行くのを、私は最初、遠くから見ていたと思う。私は戦争を体験していない。謝罪をする資格があるとも思えない。その時代に生きておらず、空虚な言葉だけの謝罪だけしかできないのであれば、私が近寄ることはただ単に痛みを彼女に与えてしまうかもしれない。私の後ろには日本という所属があり、私がどうやっても直せない過去が、今私が立っている時間と同じ線上に存在している。日本社会の先人たちが築いた社会の恩恵を受けている私達は、同時に過去の重荷も背負っている気がした。

そんなことを一瞬頭の中で考えていた気がしたが、私は気が付いたら、彼女の目の前に歩を進めていた。そして目の前の彼女が、私を一人の人間として見つめているのに気が付いた時、我慢していた涙が自分の目からこぼれるのをどうしても止めることができなかった。

「あなたは、何を若い世代にもとめますか?」

通訳の方を介して、私は自分がこのような内容の質問をしたと記憶している。

「心で感じてほしい」

答えを求めていた私に、彼女はそう答えた。

心で感じるとは、何だろう。

痛みに対して涙を流すこと? 彼女たちを受け入れるまでに時間がかかった日韓双方の社会や、根本から存在を否定する日本社会の一部の人達への憤りを表すこと? 彼女の言葉の意味を、「共感する」、という形でわかったような気になる事は簡単だっただろう。

でも、私にはそれが当時できなかった。

彼女の言葉を自分の中でどう解釈したらいいのか、「近くて、遠い」社会をつくるためにどう伝えていったらいいのか、私はどうあるべきなのか、益々混乱した。

その混乱が、2015年の6月の、中国山西省への訪問に繋がる。

慰安婦問題と言えば日韓関係と結び付ける人が多いと想像するが、これは日韓だけの問題ではない。中国、台湾、インドネシアやフィリピンなどの東南アジア、そしてオランダとの間の問題でもあり、もっと言えば、日本と一定の国ではなく、紛争が起こると発生するどの国も向き合わざるを得ない普遍的な人権の問題でもある。

私は東アジアの軸でこの問題に向き合いたかったこともあり、北京大学へ留学した際に、様々な方の力を借りて中国山西省の張先兔(Zhang Xiantu)さん、長年山西省で元慰安婦の当事者の話を草の根活動で聞いてきた張双兵さん、そして慰安婦だったお母様を自殺で亡くした楊秀蓮さんへの訪問をすることができた。

韓国での訪問と異なったのは、自分で全て計画したこと、そして明確に訪問をする先で聞きたいことがあったということ。それは韓国の方にお伺いしたことと同じで、戦争を知らない私達に、何を求めるか、ということだった。

張先兔さんが住んでいたのは、山西省の田舎の、本当に小さい、ベッドと必要最低限の家具がおかれた一部屋の家だった。

どやどやとやってきた私達を、張先兔さんが笑顔で迎えてくださったことが、大きく印象に残っている。張先兔さんは驚くほど小さくて、太陽にやけた顏には深いしわが刻まれていたが、目の奥に秘めた光が、非常に強い方だった。

私は幾つか質問をしました。日本の戦争を知らない若者に何を求めるか、ということも含めて。 だが当時既にご高齢で、過去の慰安婦の経験から体調も芳しくなかった張先兔さんには、私の質問がうまく伝わらなかったようだった。それでも、「毎日がんばって勉強します」と私がつたない中国語でお伝えすると、またにこっと笑ってくださった。

帰りがけ、張先兔さんはお土産にと、戸棚からひまわりの種をくださった。 中国ではひまわりの種をスナックのように食べる。私はひまわりの種をもらって、なんだか、拍子抜けしてしまった。あまりにも異なる、ひまわりの種と「慰安婦」という二つの交わらなさそうな物事。私は、そのひまわりの種の登場で、張先兔さんの日常の中に自分がいることに気が付いた。韓国のナヌムの家は教育的な目的もあり、そこは慰安婦の方々の空間だった。日本人の私は、そこにいることで、悲しみやら憤りやら、感情の揺れ動きを常に自分の内側に感じた事を覚えている。

一方で、中国山西省の私がいま立っているここは、張先兔さんの空間、日常だ。そこには何かを教えてくれる看板もなく、ましてや気軽に行けるような場所でもない。 そんな場所にある張先兔さんの自宅に足を運び、張先兔さんは私達をまるで隣人が訪ねてきたかのように受け入れ、いつも食べているひまわりの種を、くれたのだ。

そしてそれは、慰安婦当事者だったお母様を自殺で亡くされた楊秀蓮さんへの訪問も一緒だった。張先兔さんの後、お話をお伺いしに伺ったご自宅は、張先兔さんの家より横に広い家だった。けれどやはり楊秀蓮さんも笑顔で、まるで隣人のように私達を迎え入れ、スイカをだし、リラックスしてベッドの上に座るようにすすめた。私達が帰る際も、笑顔で、「また来てね!」と言ってくださった。

楊秀蓮さんは当事者ではないが、まだお元気だったため、色々なことを話した。「日本政府は責任を取るべきだ」という厳しい言葉や、お母様と、その亡くなってしまったお子さんのお話。その一連をお伺いして、私はこの人であれば、聞きたかった質問に対して答えてくださるのではと思った。

「戦争を知らない世代に、何を求めますか?」

私は楊秀蓮さんがこの時発した言葉を、胸の中でも反芻し、それを誓いとして、東アジアの平和構築に携わっている。

「母親が子供に愛情を渡すように、平和を受け継いでほしい」

私はここに、自分のやるべきことを、見つけた。

この訪問は、私の韓国人の友人2名、日本人の友人1名、中国人の友人1名で行えたことに、とても意味があったと思っている。日本人の私の大学院の友人は男性で、私は彼を、本当に尊敬している。彼は当事者ではないが、女性の私でも居心地が時々悪くなるこの問題に、真正面から、当事者に会う、という形で一緒に向き合ってくれた。また、中国人の友人は将来メディアへの就職を希望していたため、旅の一部を撮影してくれた。その映像を編集したものが、今でも手元に残っており、未来への力強いメッセージとなっている。

時代と世代、そして私の役割

現在、世界人口の半数以上が30歳以下の若者だ。東アジアの三ヵ国では感じづらいかもしれないが、若者は未来をつくるという役割以前に、今この瞬間の社会をつくる、大きな役割も担っている。

前述した内閣府の世論調査では、対中国・韓国への日本人の国民感情は良くないが、一方で、全体傾向から離れ、もう少し調査を詳しく見ていくと、2つの傾向が浮かび上がる。

1つ目は、20代~30代については、「親しみを感じない」という傾向が他の世代よりは低い事、2つ目は、それと同様の傾向が、女性という括りで見られる、ということだ。特に1つ目については、想像がしやすい。互いのポップカルチャーや食などの文化に日常的に触れ、韓国や中国からの友人がいて、実際に国へ訪問したこともある。嫌韓・嫌中の感覚は理解しがたい。そして、多くの人が、政治や歴史に全く興味がないとまではいかなくとも、そもそも過去について話すということに居心地の悪さを感じたり、必要性を見出せない。韓国や中国の社会や文化に対して、シンプルに喜びや愛情、尊敬を共有することで、関係性を築いている。

ここで、大事な問いがある。 日本の若い世代が対韓国・中国に対して他の世代より親しみを感じているのは、時代か、それとも世代か。

この問いかけに、私は「時代であると思うし、そうでなくても、そうするために活動を続けている」と答えたい。

時代である、というのは、多くの時間が流れ新しい時代がやってきた、という意味だ。 すなわち第二次世界大戦から77年以上たち、戦争を経験した当事者たちが少なくなり、三ヵ国の国や人の関係が未来へ向かって変わっていっている。互いの国へ親しみを感じる、ということが、この先今の若い世代から普遍的なものである、ということだ。

世代であるというのは、簡単に言ってしまえばこの傾向は普遍的なものではなく、単純に若い世代だからこそそう感じているだけだ、ということを指す。物事に対して柔軟な思考を持ち、それぞれの社会構造の中で経験するしがらみや立場に縛られない若い世代だからこそ親しみを感じているだけであり、年を重ね今以上に物事に触れ様々な声を聞けば、いずれ現在の上の世代と同じように、親しみを感じなくなってしまう。私達はいつまでも負のサイクルから抜け出せない、そんな状態だ。

答えがわかるのは、今の20代・30代がこの先年を重ね、より社会の主要な役割を担うようになった時だ。

これはチャンス以外のなにものでもない。

私は互いが良き隣人となれるよう、市民社会からの対話をメインとした社会教育を通じて、普遍的な関係が築けるよう、「時代である」という答えをつくりにいきたい。

私は現在、NPO法人Wake Up Japanという社会教育の団体で、理事をしている。2015年に大学院を修了してから、私は、東アジアにおける平和構築の大切さについて、主に慰安婦当事者の彼女たちの話を軸に、個人で伝える活動を継続してきた。それを徐々に形にしたいと思い、2017年から関わり始めたWake Up Japanで、草の根で市民間から対話を通して平和を構築する取り組み、「東アジア平和大使プロジェクト」を2020年に立ち上げた。

楊秀蓮さんの言葉を借りるのであれば、これが私の、「平和を受け継ぐ」活動だ。

当初はフィールドワーク等も視野にいれていたが、コロナウィルスの関係もあり、主に月に1回、東アジアに関するトピックでゲストを招き、その人のストーリーや知見をお伺いしながら、参加者とゲストが交あう場がメインとなっている。プロジェクトのユニークな点は、プロジェクトの年間を通した構成にある。対話自体は一カ月に1回だが、年間を通して「外国」としての韓国・中国双方について知ることはもちろん、在日コリアンの方々や台湾、日本の戦争の記憶、そして東アジアの全体での平和や、一般的な平和構築活動についても知る、ということができるように組んでいる。

また、ゲストの方がなぜいまその分野で活動をされているのか、その方の等身大のストーリーを必ず共有してもらうようにしている。一人一人の人生の中には、紛れもない真実がある。 その真実は時と共に揺らいだり、あいまいになったりする。私達が昨日夕飯に何を食べたのかふとした瞬間に自信がなくなってしまうように、人の人生の記憶というのも、そんなものだ。慰安婦当事者の方々だって、同じような経験をされていると思う。私達が人間であるからこそのゆらぎや、不確実性。その不確実性を誰しもが抱えている事に気が付き、そして、その中でも感じるゲストが持っている強い使命感や想いに触れてほしいと、プロジェクトを通して願いをもっている。

執筆をしている2022年現在、3年目となったこのプロジェクトは、一部プログラムを李煕健韓日交流財団「韓国研究次世代学者支援事業」として助成頂く等、少しずつだが、持続的にできるよう、前進している。惜しくも2020年、世界をコロナウィルスが襲い、韓国や中国へ渡航する、実際に人に合って話を聞く、ということが難しい時間が続いている。オンラインでの対話という選択肢をメインに取ることしか今はまだできないが、それでも毎年数十名の心を動かし、その人たちがまた自分の活動の中で何かしら行動してくれることが、社会を動かす、ということだと思っている。

「戦争責任や、若い世代の役割について、慰安婦問題についてどう考えているの?」

そんな質問をよく受ける。

私は、こう答える。

「そこに傷つき痛みを持った人がいて、声をあげているのであれば、私はそれに耳を傾け、私ができることをしたい。」

何も、特別なことではない。 私が普段、私の周りの大切な人々にしている事や向き合い方を、東アジアという好きなものに、向けているだけだ。 このnoteを読んだひとりひとりが自分にとって好きなことを、東アジアの切り口でしていくことこそが、平和な関係を構築するのだと、私は信じている。

長川 美里 / Misato Nagakawa